主観的精神注解, 第5章
どちらの版がより良いか
この問いは数え上げによって決着できず、吟味によってのみ決着できる。どちらが論理学と全体の構成に、より良く適合するか。
印刷されたパラグラフに有利なのは、その位置である。 § 382は入口にある。そこでは、精神の概念が一般に規定される。区分の前、人間学の前である。この箇所では、後になって初めて展開されるものを前提してはならない。そして、ヘーゲルは明示的にそう言っている。自由は「形式的に」規定され、その可能性は「精神の抽象的な対自的にある普遍性それ自体」である。
抽象的、形式的――これらはヘーゲルにおいて弁解ではなく、位置の表示である。この箇所に立つものは貧しくなくてはならない。
エルトマンの版に有利なのは、それが運動を名指していることである。 「自らを解放すること」は過程である。それに対して、「すべてから捨象できること」は能力である。そして、精神の哲学は歴史であって、能力の目録ではない。ヘーゲル自身、経験的心理学に対してそう異議を唱えた(§ 378)。
試金石は論理学である。 論理学において概念は、まず主観的なものとして、即自的に、形式的にあり、次いで客観的なものとして、次いで理念としてある。抽象的规定は誤りではなく、未発展なのである。そして、それに続くのは発展であって、修正ではない。
これで事柄は決着する。そして、両方が正しさを保つ仕方で決着する。 § 382は、規定が立たねばならない箇所で規定を与えている。形式的であるのは、すべての発展に先立つからである。エルトマンの版は同じ規定をプログラムとして与えている。しかも、講義が何をするかをヘーゲルが語る導入部においてである。
これは矛盾ではなく、定理と予告との差異である。
そして、§ 382への補遺は、ヘーゲルが両方を見ていたことを示している。 パラグラフが言わないことがそこに書かれている。精神の自由は「単に他者の外にあるのではなく、他者のうちで獲得された他者からの独立であり、他者から逃れることによってではなく、他者を克服することによって現実性へ達する」。
獲得されたものであって、もとからあるものではない。 これで運動は印刷版にもある。ただし、編者たちに由来し、おそらくまさにこれらの講義から出た補遺のうちにである。〔KF〕 [KF]
私がこの巻のためにそこから引き出すこと。 諸版が食い違う場合、まず問うべきは、それらがどの箇所に立っているかである。緒論からの一文と体系的な入口からの一文とは、異なる役割をもつ。そして、より強い定式化が常により良いとは限らない。それは、その場所でより多くのことを果たす場合に、より良いのである。〔KF〕 [KF]
第二の規定は顕現である。 そして、それはより結果の大きい規定である。
「それゆえ、精神の規定性は顕現である。精神は、何らかの規定性や内容であって、その表明や外在性が、それとは区別された単なる形式でしかないようなものではない。したがって、精神は何かを啓示するのではなく、精神の規定性と内容は、まさにこの啓示することそのものである」(§ 383)。
ここに、この巻全体を決定する文がある。 精神は、後から表明するような内容をもつのではない。精神の内容は、啓示することそのものなのである。
これを見落とす者は、表明の背後に内なるものを探す。つまり、みずからを示す魂、行為の背後にある自己をである。そこには何も見いだされない。これは、ヘーゲルが本質論において現象の「背後にある」本質に対して行うのと同じ異議であり、ここでは特別の鋭さで妥当する。
そして、ここからシュテケラーが§ 387について言うことが帰結する。「もちろん、字義どおりの意味では、精神は何もしない。」内容が啓示することであるところでは、それを遂行する審級はない。それを遂行するのは私たちである。〔KF〕 [KF]